| 佐藤琢磨は、1977年1月28日に東京都新宿区で誕生した。両親の仕事柄、幼年期は一日の多くを保育園で過ごしたが、クルマに関心を持ち始めたのもこの時期で、当時は片足で地面を蹴って進む“スクーター(後のキックボードに似た乗り物)”で飽きもせずに遊んでいたという。 自転車を初めて手に入れたのは3歳のとき。しかも、あっという間に補助輪なしで乗れるようになったというから、乗り物を操るセンスは天賦の才だったようだ。自転車については、後にインターハイで優勝するほどのめり込んでいくが、その原動力となったのは、持ち前の運動神経と体力、それに生来の負けず嫌いをバネとした集中力と忍耐力であったといっても過言ではない。 ほどなく町田市に転居して地元の小中学校を卒業、高校は和光学園に進学した。やがて自宅近くにあった自転車のプロショップ「たかだフレンド」と出会い、本格的な自転車競技を始める。当初は自分の通う高校に自転車部がなかったため、高校生を対象とした公式の競技会に参加できなかったものの、クラスの担任を顧問にして独力で自転車部を創設、3年生のときには前述したようにインターハイで優勝という快挙を成し遂げる。 1995年には早稲田大学に入学して自転車部に所属、寮で起居する自転車漬けの毎日が始まる。その後も1995年インターカレッジ:2位、1996年全日本学生選手権:優勝と華々しい戦績を残したが、10歳のときに鈴鹿で観戦したF1日本グランプリの感激が忘れられず、心の中は次第にモータースポーツのことで占められていった。 そうした折も折、ホンダと鈴鹿サーキットの手でフォーミュラカーを用いたレーシングスクール“SRS-F”が設立されたことを雑誌で知り、ここを足がかりにしてモータースポーツの世界に飛び込むことを決心する。そして、まずはレーシングカートに挑戦。入門した「アルデックス・ジャパン」の秋山昌夫代表から手ほどきを受けた琢磨は、当時、極めつけの難関といわれたSRS-Fに一発で合格したが、これは年齢制限ギリギリの、いわば最後のチャンスを生かした入学であった。 1997年は大学を休学してSRS-Fとカートに専念する。スクール生のなかにはカートの全日本チャンピオンなど、遅咲きの琢磨とは比べ物にならないほど経験豊富な選手もいたが、琢磨は入学した直後からそうしたスクール生はもちろんのこと、時には講師陣さえ置き去りにするような速さを披露、ここで文句なしのトップでスカラシップを獲得し、翌年の全日本F3選手権へのデビューを決める。あわせて、中谷明彦が主宰するドライビングアカデミー「中谷塾」も受講、こちらも主席で卒業した。 1998年、琢磨は名門チームの無限×童夢プロジェクトより全日本F3選手権への参戦を果たすが、F1ドライバーとなるにはイギリスで活動する以外に道はないとの信念からシーズン半ばに渡英し、ヨーロッパのレースに参戦する道を模索する。ただし、いきなりイギリスF3選手権に挑戦することはしなかった。F1への登竜門として知られる同選手権は、世界の強豪が集まる激戦区。英語も満足に話せなければイギリスのサーキットを走った経験もなく、ヨーロッパのチームがいかにレースを戦っていくかさえ知らないようでは、どんなにスピードに自信があっても成功は覚束ないことを、琢磨自身が熟知していたからである。しかも、F1関係者も注目するイギリスF3での失敗は2度と取り返すことができない。そうしたリスクを回避するため、琢磨はまずフォーミュラ・ヴォクスホールJr.に出場、続く1999年にはEFDAユーロシリーズ(かつてのフォーミュラ・ヴォクスホール・ロータス)に参戦し、雨のレースではすべて優勝するという活躍を示す。いっぽう、シーズン後半にはイギリスF3選手権のナショナルクラスにも出場し、翌年に向けての実戦経験も積んだ。 迎えて2000年、琢磨は満を持してイギリスF3選手権への挑戦を開始する。マネジャーのアンドリュー・ギルバート-スコットと共に琢磨が選んだチームは、どちらかといえば新興勢力のカーリン・モータースポーツだった。トレヴァー・カーリン率いる同チームは設立間もないにも関わらず、スタッフはベテラン揃いで、それでいながら組織としての若々しさを保っている点が琢磨とアンドリューの気を惹いた。ふたりの見立てどおり、カーリン・モータースポーツはトップチームに遜色のないポテンシャルを有していた。確かに、つまらないミスを犯すこともあるにはあったが、琢磨たちが初年度の目標としていた「まずはドライバーとしての速さを見せる」という目的を果たすには充分で、イギリスF3ではこの時点での日本人最多となる4勝を挙げたばかりか、ノンチャンピオンシップのスパ・フランコルシャンでも優勝、さらにザントフールトやマカオなどのインターナショナルレースでもトップと伍して戦える可能性を示したのである。 この年の終わり、琢磨はF1マシーンのステアリングを握るチャンスを得た。イギリスF3での奮闘振りに関心を抱いたエディー・ジョーダンが招く形で、ジョーダンEJ-10無限・ホンダを操ることになったのだ。12月7日、ヘレスで行なわれたテストは、残念ながら昼過ぎから雨が降り始めたためにわずか半日で終わったが、F1ドライバーになるという琢磨の夢は、この日、漠とした目標から現実的な可能性に転じたといえる。 こうした流れをさらに加速させたのが、そのわずか10日ほど後に参加したBARホンダのオーディションである。“ドライバーズ・ディベロップメント・プログラム”と名づけられたこのプログラムは、BARが若手ドライバーの育成を目的として実施したもので、このときは琢磨と1999年イギリスF3チャンピオンのマーク・ハインズが候補生として参加した。バルセロナで行なわれた2日間のテストで、琢磨はコンスタントにハインズを上回るスピードを発揮。こうした結果を受けて、後日BARホンダは琢磨をテストドライバーとして起用することを正式に決定したのである。 F1チームのテストドライバーに抜擢された琢磨に残された課題はただひとつ、2001年イギリスF3チャンピオンに輝くことだった。前年に続いてカーリン・モータースポーツから同シリーズに参戦した琢磨は、開幕直後の4戦こそ勝ち星がなかったものの、第5戦ドニントンパークでシーズン初優勝を遂げると破竹の快進撃を始め、終わってみれば26戦中優勝12回、ファステストラップ15回、ポールポジション6回をマークしてチャンピオンシップを獲得しただけでなく、シルヴァーストーン、ザントフールト、そしてマカオで開催された国際F3レースも制し、名実共にF3ドライバーとして世界の頂点を極めたのであった。 もはや琢磨がF1ドライバーとなるのに何の障害も残されていなかった。2001年10月、琢磨はジョーダン・グランプリのドライバーとして2002年シーズンのF1に参戦することを正式に発表する。初めてレーシングカートに乗ってからわずか5年でF1に辿り着くとは、現在のモータースポーツ界では奇跡に近い快挙だといえよう。 2002年、琢磨は意気揚々とデビューシーズンを迎えたが、この年はジョーダン・グランプリが大きな転機を迎えた年でもあった。まず、空力デザイナーのエグバル・ハミディが中心となって開発されたジョーダンEJ-12は、良路では卓越した空力性能を発揮して侮りがたい速さを見せたものの、多くのサーキットでは様々な不具合を露呈、チームメイトで天才との呼び声も高いジャンカルロ・フィジケラをもってしてもこの年は4位が最高位で、シーズン中の入賞回数はわずか4回に留まった。これに対し、F1初年度の琢磨にとって状況はさらに厳しく、しかも信じられないほどの不運が重なった結果、一度もポイントを獲得できないまま最終戦日本GPを迎えたのである。しかし、このレースを前にしてチームは久々のテストを実施、ここで最新のブリヂストン・タイアの感触を確認した琢磨は、確かな手応えを掴んだうえでホーム・グランプリに臨んだのであった。 その成果は、これまでの苦戦が嘘のような健闘振りとなって表れた。予選では、さすがにフェラーリ、マクラーレン、ウィリアムズの3強を破ることはできなかったものの、その他のチームを圧倒して7番グリッドを獲得。決勝でも完璧なレース運びを見せ、トップ3チームの一角を崩して5位入賞を果たした。その超人的ともいえるドライビングに詰め掛けた15万人は酔いしれ、サーキットは1時間半にわたって熱狂的な雰囲気に包まれたのである。 2003年、ジョーダン・グランプリで2年目のF1シーズンを迎える計画だった琢磨は、難しい選択を迫られる。昨年から資金難に苦しんでいたジョーダンの財政状況がさらに悪化、さらにこの年はフィジケラがチームのNo.1待遇を受けることが決まっていたので、琢磨が前年度以上の苦境に立たされることは火を見るより明らかだった。いっぽう、同じく琢磨の才能に強い関心を示していたBARホンダは、2003年に向けてジャック・ヴィルヌーヴとジェンソン・バトンのドライバー・ラインナップをすでに確定していた。したがって、BARに移籍すれば2003年はとりあえずリザーブドライバーとしての契約となるものの、チームの将来性は明らかにジョーダンを上回る。レースドライバーに拘って下降曲線を描くジョーダンと命運を共にするか、それとも一旦はリザーブドライバーのポジションに甘んじてBARホンダのオファーを受け入れるか。琢磨は悩みに悩みぬいた末、後者の道を選ぶ。幸い、エディー・ジョーダンもこうした琢磨の苦しい胸の内に理解を示し、両者は互いの健闘を約束しながら、別々の道を歩む決定を下した。 2003年開幕戦オーストラリアGP、しかしスターティンググリッドに琢磨の姿はなかった。彼はBARホンダのピットで、ヴィルヌーヴとバトンの戦い振りを見守っていたのだ。実戦の場から離れることは、生まれつきのファイターである琢磨にとっては言葉で言い尽くせないほど悔しい経験だったに違いない。しかし、琢磨は自分の未来を信じて、新たなドライバー人生を歩み始めたのである。幸い、ホンダの強力なバックアップを得たBARは、昨年にも増してテストプログラムを充実させるというから、テストドライバーを務める琢磨にとっても忙しい日々が待ち受けているはず。そして毎週のようにグランプリ・コースとテストの舞台となるサーキットを往復しながら、2004年開幕戦のスターティンググリッドに向かう自分の姿を、琢磨は心の中で描いているに違いない。 突然のチャンスが巡ってきたのは、2003年最終戦日本GP直前の木曜日。その数日前にチームが佐藤琢磨とジェンソン・バトンのコンビで2004年シーズンを戦うと発表したのが影響したのか、本来のレギュラードライバーであるジャック・ヴィルヌーヴが日本GPへの不出場を表明、このためリザーブドライバーである琢磨が急遽、鈴鹿を走ることが決まったのだ。琢磨は土曜日の予選こそ不本意な13位で終えたものの、決勝ではピンチヒッターとは思えない快走を披露。しかも、レース序盤はフェラーリのミハエル・シューマッハー、中盤にはウィリアムズBMWのラルフ・シューマッハーという強敵の追撃を受けながらもこれを退け、6位入賞という大金星を挙げたのである。これでラッキーストライクB・A・Rホンダは逆転でシリーズ5位の座を掴むこととなった。 そして2004年、佐藤琢磨はラッキーストライクB・A・Rホンダのレースドライバーとして再びF1GPに挑んだ。この年のB・A・Rホンダは飛躍的にパフォーマンスが向上したこともあって、琢磨はトップドライバーたちと互角の戦いを演じていく。特に目覚しかったのが予選結果で、第5戦スペインGPでは3位、そして第7戦ヨーロッパGPではフェラーリのミハエル・シューマッハーと並ぶフロントロウを獲得。日本人初の快挙にファンは沸き立った。このレースではシューマッハーのチームメイトであるルーベンス・バリケロと激しい2位争いを展開、結果的にはバリケロと接触して順位を落としてしまったが、3位では飽き足らずに2位を目指した琢磨のファイティングスピリットに惜しみない拍手が贈られた。 ただし、前半戦はエンジン・トラブルが連続し、ポイント圏内を走行していてもフィニッシュできないレースが続いた。そうした悪い流れを断ち切ったのが、第9戦アメリカGPだった。ウィリアムズのラルフ・シューマッハーがレース中に大怪我を負うなど、波乱の展開となったこのレースで、琢磨は2台のフェラーリに続く3位でフィニッシュ、日本人F1ドライバーとして実に14年振りとなる快挙を成し遂げたのだ。ただし、その後チームはコンストラクターズ選手権で2位を目指す姿勢を明確にし、琢磨にも表彰台より確実な入賞を期待するようになる。それでも果敢に戦った琢磨はイタリアGPと日本GPで4位に入ったものの、残念ながらアメリカGP以降は表彰台に手が届かないままシーズンを終えた。 目標どおりコンストラクターズ選手権2位を勝ち取ったB・A・Rホンダは、レースでの優勝を最大のテーマとして続く2005年シーズンに挑んだが、空力関係のレギュレーション改正への対応が遅れてパフォーマンス不足に苦しみ、表彰台はおろかポイント獲得も覚束ない状態が続く。しかも、第4戦サンマリノGPでは最低車重違反の疑いを掛けられて失格に処されたばかりか、続く2戦の出場停止をも命じられてしまう。それ以外にも予選中の天候急変やウィルス性の熱病など、常識では考えられないような不運が連続。この結果、入賞はハンガリーGPの1回のみという屈辱的なシーズンを送ったのである。 琢磨を襲った不運はこれだけでは済まなかった。チームメイトのジェンソン・バトンは翌年ウィリアムズに移籍する契約が存在していたため、B・A・Rホンダはフェラーリからルーベンス・バリケロを招き入れることを決定したが、その後、バトンはB・A・Rホンダへの残留を画策。結果的には、この影響を受けた琢磨が2006年のシートを失う格好となったのだ。琢磨の未来に思わぬ暗雲が立ち込めていた……。 しかし、グランプリ界が琢磨の存在を忘れてしまったわけではない。下位チームのなかには琢磨にレースドライバーのポジションをオファーする者もあったし、テストドライバーであればトップチームとの契約も可能であった。しかし、いずれの場合も、レースを戦いながら未来を切り開いていく道筋とは言い難い。そうしたなか、急遽浮上したのがスーパーアグリF1チームからの参戦だった。 このプロジェクトの中心人物は、1990年日本GPで日本人として初めてF1表彰台に上った鈴木亜久里である。亜久里は日本人のためのF1チーム設立の意義を説き、ホンダやブリヂストンのサポートを得て2006年F1グランプリへの参戦を計画。そしてレースドライバーに佐藤琢磨を迎え入れようとしたのだ。しかし、時間が限られたなかでのプロジェクト立ち上げだったため、亜久里や琢磨は様々な難問に直面、特にFIAへのエントリー届出は一旦申請が却下されるなど、チーム設立の道は困難を極めた。それでも関係者が一丸となって努力した結果、2006年1月27日にはエントリーが正式に受理され、2月14日には待望のマシーン“SA05”が完成してシェイクダウンテストを実施、翌15日にはチームと琢磨がドライバー契約を正式に発表するなど、事態は急速な進展を見た。 そして2006年3月12日、佐藤琢磨とスーパーアグリF1のチャレンジは、開幕戦バーレーンGPを舞台にスタートする。ポールシッターから6秒遅れの20番手で予選を通過した琢磨は、決勝でも準備不足に起因する様々なトラブルに悩まされてピットインを繰り返したが、トップから4ラップ遅れの18位で完走し、見事SAF1の初陣を飾った。その後、第12戦ドイツGPではリアエンドを一新したSA06を投入したものの、根本的なパフォーマンス不足は解消できず、苦戦が続く。けれども、終盤戦は琢磨の超人的な戦いぶりに鼓舞されてチームも奮闘、第17戦日本GPは15位、最終戦ブラジルGPでは奇跡とも言える10位完走を成し遂げて初年度を終えた。 続く2007年、SAF1は相変わらず資金難に苦しんでいたが、ホンダF1の2006年モデルをベースに開発されたSA07を得たことで、昨年に比べるとチームの戦闘力は飛躍的に向上した。それでも、さすがにトップチームからは大きく引き離されていたが、開幕戦オーストラリアGPの予選ではチーム設立以来、初のQ3進出を果たして10番グリッドを確保するなど、SAF1は中位グループの一員としてその存在感を強めていった。そして第4戦スペインGPでは、彼らの持ち込んだ空力パッケージが予想外の好パフォーマンスを発揮、13番グリッドから追い上げた決勝では8位でフィニッシュし、SAF1は設立から1年半で初の入賞を果たすことになった。 琢磨の敢闘はこれだけでは終わらなかった。大混戦となった第6戦カナダGPで、琢磨はセーフティカーが導入されるたびに好判断を下し、終盤は目の覚めるような追い上げを披露。トヨタのラルフ・シューマッハーにくわえてマクラーレンのフェルナンド・アロンソをも華麗にパスし、6位でチェッカードフラッグを掻い潜ったのである。アロンソをパスする様子はテレビの国際映像でも捉えられ、新興・弱小チームのSAF1が押しも押されもせぬ名門マクラーレンを抜き去るシーンに世界中のファンは夢と感動を味わうこととなった。この年、琢磨は合計3ポイントを獲得、ドライバーズ選手権で17位、コンストラクターズ選手権では9位に輝いている。 SAF1で3シーズン目となる2008年は、琢磨にとってもチームにとっても苦難の年となる。この年からトラクションコントロールがレギュレーションで禁止されたことを受け、どのチームもスタビリティを重視したエアロダイナミクスを開発してきたのに対し、2007年モデルのホンダF1をベースとするSA08は従来どおりのピーキーな空力特性を有し、ドライバーを手こずらせた。さらに、チームの財政難は危機的な状態に陥り、ほぼ“ぶっつけ本番”の状態で開幕戦オーストラリアGPに臨むことになる。19番グリッドから挑んだこのレース、琢磨は32周目にギアボックス・トラブルのためリタイアに追い込まれた。第2戦以降も16位、17位、13位と苦戦が続いたが、財政難のため、チームは第4戦スペインGPを最後にF1からの撤退を決定、琢磨のF1参戦にもここで一応のピリオドが打たれてしまう。 もっとも、SAF1の撤退後も、琢磨はF1復帰を目指して精力的に活動していた。そしてその成果はトロロッソのテスト参加という形で実る。琢磨はまず9月にヘレスでトロロッソのステアリングを握ると、11月にバルセロナ、12月に再びヘレスでトロロッソのテストに参加。2008年レギュラードライバーのセバスチャン・ブールデや、この時点でのドライバー候補であったセバスチャン・ブエミを大きく上回るスピード、テクニカルフィードバック、安定性を披露し、チームに強い印象を与えた。そして2009年のレースドライバー就任は確実だと、この時点では多くの関係者が信じていた。 ところが、2月6日にトロロッソはブエミのチームメイトとしてブールデを起用すると発表、琢磨がF1に復帰する夢はここに潰えてしまう。 現在、琢磨はF1を中心とするレース活動の再開に向けた準備を進めている。 |
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